ボーイスカウトを創った人―ベーデン・パウエル・オブ・ギルウエル男爵の生涯とボーイスカウトの歩み  

森屋啓著「地域力だ!ボーイスカウト」日貿出版社より

西暦 ベーデン・パウエル・オブ・ギルウエル男爵の生涯と世界のボーイスカウトの歩み 西暦 日本のボーイスカウトの歩み
1857 2月22日ロンドンでオックスフォード大学教授であり牧師の父と水彩画や音楽に造詣が深い母との家庭に生まれた。B-Pの絵の才能は母親譲りとされる。(この日に世界中でB-P祭が行なわれている)
1876 名門チャーター校卒業後陸軍に入隊し、騎兵仕官候補後、英国植民地インドに゙駐在。
1883 英国植民地南アフリカに駐在。「偵察と斥侯」出版。
1888 南アフリカに再度の駐在。ズールー族との戦闘に副官として参戦し勝利する。族長から木製のビーズに紐を通した首飾りを貰う。後年このビーズがボーイスカウト指導者の印に使われる。
1895 植民地ガーナに駐在。1889年少佐に任官。
1896 南アフリカに3度目の駐在。
1897 インドに再度駐在。大佐に昇進。「斥侯の手引き」出版。
1899 インドから帰国後、ローデシア前線司令官として南アフリカに4度目の駐在。マフェキングに司令部設置。10月ボーア戦争勃発し、ボーア人(オランダ系農民)の軍隊に包囲され孤立し籠城戦に。6歳以上のマフェキング在住英国人少年を見習兵団として組織し、伝令、郵便配達、見張役等の軍務を任せる。少年達は、危険を顧みずに嬉々として任務を全うした。この経験がボーイスカウト創設の大いなるヒントになった。
1900 5月援軍が包囲網を突破合流し連戦連敗のボーア戦争に勝利した。217日の籠城戦を戦い抜いたことで“マフェキングの英雄”となった。少将に昇進。
1901 ビクトリア女王死去。
1903 南アフリカから帰国後、騎馬隊監察長官に就任し欧州やアメリカ大陸を巡察。
1907 騎馬隊監察長官を離任し中将に昇進と共に予備役に編入さる。 1904 明治37年 日露戦争
1908 7月29日~8月9日知人が所有する英国南部のブラウンシー島で20人の少年(中産階級11人、労働者階級9人、 B-Pの狙いの中に階級問題の解消があった)による実験キャンプを行う。4つのパトロールに分けて活動。これが、世界最初のボーイスカウトキャンプであり、少年の小集団活動の始まり。 1908 明治41年 日本に初めてボーイスカウト運動が伝わる。
1909 「スカウティング・フォア・ボーイス」出版。スカウトクラフト、追跡法、ウッドクラフト、キャンプ生活、野外生活法、耐久力、騎士道、救急法、愛国心、指導者への指示やキャンプファイヤー夜話からなる。スカウトの目的が「ちかい」と「おきて」に集約。そして活動の方法論として、パトローリングシステム(小集団活動-日本では班制度と呼称)とバッジシステム(日本では進歩制度と呼称し記章-バッジを授与)が提示されている。
9月ハイドパークで最初のスカウトラリー開催。英国全土から1万1千人参加。ガールガイド発足。アメリカ・ボーイスカウト連盟(BSA)登録。 1910 明治43年 「スカウティング・フォア・ボーイス」の翻訳版が「少年兵団」として発行される。
1911 5月国王ジョージ5世観閲の3万人ラリー開催。11月連合王国ボ-イスカウト連盟として公認。 1911 明治44年 東伏見宮親王の随員として東郷元帥・乃木大将が訪英しB-Pと面談しスカウト集会を見学。帰国後乃木は片瀬海岸でボーイスカウト式キャンプを実施。

ブラウンシー島実験キャンプ

キャンプファイヤー物語キャンプサイト(B-Pが描いた挿絵)

西暦 ベーデン・パウエル・オブ・ギルウエル男爵の生涯と世界のボーイスカウトの歩み 西暦 日本のボーイスカウトの歩み
1912 世界一周の旅に。途中日本訪問。帰国後オレーブ・ソームズと結婚。54歳と22歳。その後3人の子どもをもうける。 1912 明治45年4月 B-P来日。明治天皇崩御し乃木大将殉死。
1916 「ウルフカブス・ハンドブック」発行。 1914 大正3年8月 静岡少年団創設。9月大阪少年義勇団創設。12月東京少年団に改称。
1917 シニアスカウト部門設置。
1918 ローバースカウト始まる。第1次世界大戦終結。 1921 大正10年 皇太子(昭和天皇)訪英時にB-P謁見。最高l功労章シルバーウルフ章を贈られる。
1919 ギルウエルパークに指導者実修所開設。 1922 大正11年4月 第1回全国少年団大会(静岡連盟)・少年団日本ジャンボリー(東京連合少年団)開催。
1920 第1回国際ジャンボリーがオリンピアの円形競技場で開催され8千人の参加者。BPはここでチーフスカウト(総長)に就任。日本から3名参加。第1回国際ボーイスカウト会議開催。世界ボーイスカウト人口は102万人に。 1923 大正12年 少年団日本連盟(後藤新平総裁)発足。9月関東大震災。女子補導団(ガールスカウト)設立。
1924 第2回国際ジャンボリーがコペンハーゲンで開催され、日本から三島通陽以下24人参加。佐野常羽ギルウエル実修所入所。 1924 大正13年 後藤新平総裁が「自治三訣-人のお世話にならぬよう 人のお世話をするように そして報いを求めぬように」を掲げた。第1回全国野営大会を福島で開催。連盟歌「花は薫るよ」採用。
1929 第3回世界ジャンボリーが英国バークンヘッドで開催され、日本から佐野常羽以下28人参加。世界スカウト人口189万人。10月世界恐慌。 1925 大正14年 帰国した佐野常羽を中心に山中湖畔で指導者訓練所開設。「ちかい」「おきて」(12項目)制定。
BPは国王ジョージ5世により男爵に叙せられ、ベーデン・パウエル・オブ・ギルウエル男爵となる。
1933 第4回世界ジャンボリーがハンガリーで開催された。ドイツ・イタリアはファッシスト青年団に吸収され不参加。 1935 昭和10年 「少年団日本連盟」は「大日本少年団連盟」に改名(約10万人)。別個に指導者を学校教員に頼った文部省主導の「帝国少年団協会」発足(約29万人)。
1937 第5回世界ジャンボリーがオランダハーグで開催された。81歳のB-Pはここで別れのスピーチを行う。 1938 昭和13年 「大日本海洋少年団連盟」として独立。
1938 B-P夫妻はケニアのナイロビから100キロメートルのニエリに移住。「アフリカの鳥と獣」を執筆。
1939 ノーベル平和賞候補に推薦されたが、戦争により、ノーベル平和賞そのものがなくなった。「自分のカヌーを漕げ」を執筆。
1940 「続ケニアのスケッチ」を執筆。11月風邪を引き寝込む。
1941 1月8日B-Pは妻オレーブに看取られて84歳で死去。遺言に沿ってケニア山麓に埋葬。死去後遺品のなかから「最後のメッセージ」が発見。 1941 昭和16年 戦時色が強まる中青少年4団体は統一させられ「大日本青少年団」に。
    1947 昭和22年 GHQの許可のもと東京と横浜で活動を開始。
    1949 昭和24年4月 財団法人ボーイスカウト日本連盟設立認可得る。(マッカーサー元帥を名誉総裁)9月第1回全日本ボーイスカウト大会(後にジャンボリーと呼ぶ)開催。(以降4年毎に開催)
    1950 昭和25年 ボーイスカウト国際事務局に再登録し国際復帰。三島通陽が三島家の那須別荘を日本連盟に寄贈し11月那須野営場開設。初代場長は中村知。
    1951 昭和26年 三島通陽が第4代総長に。菊、隼、不二(富士)スカウトができる。
    1952 昭和27年 カブ、シニアー、ローバーの各プログラム制定。
1957 B-P生誕100年・スカウト運動50周年に当たり、世界ジャンボリー開催。「ゴールデンジュビリー」と呼ぶ。 1956 昭和31年 第1回日本ジャンボリーが軽井沢で開催。
1958 第1回ジャンボリー・オン・ジ・エアー(JOTA)開催。 1971 昭和46年 第13回世界ジャンボリーが静岡県朝霧高原で開催。第23回ボーイスカウト世界会議が東京で開催(天皇陛下臨席)。
1973 昭和48年 第1回日本アグナリー(国際障害スカウトキャンプ大会)が愛知で開催。
1984 昭和59年 第1回シニアースカウト大会(日本ベンチャー)が南蔵王山麓で開催。
1986 昭和61年 ビーバー隊発足。
1990 第32回世界スカウト会議がパリで開催され、世界成人資源方針」(アダルトリソーシス方針)が制定。 1995 平成7年 全ての部門で女子の加盟登録認める。
2007 スカウト運動100周年。第21回世界スカウトジャンボリーがロンドンで開催され日本から1518名参加。参加者総勢4万人。 2010 平成22年4月 公益財団法人ボーイスカウト日本連盟に認可得る。8月第15回日本ジャンボリーが朝霧高原で開催。(4年毎に開催されて来た)
2011 第22回世界スカウトジャンボリーがスエーデンで開催予定。 2013 平成25年 第16回日本ジャンボリーが山口市で開催予定。(プレ世界スカウトジャンボリー)
2015 第23回世界スカウトジャンボリーが日本の山口市で開催。 2015 平成27年 第23回世界スカウトジャンボリーが日本の山口市で開催。

初代総裁 後藤新平

B-P最後のメッセージ(B-Pサイン入り)

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